三田評論

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2016年1月号

大鏡餅

佐 藤 正 直

さとう まさなお ㈱宇佐屋会長・塾員

 明けましておめでとうございます。
本年も、十日には福澤先生誕生記念会と新年名刺交換会が盛大に行われることと心よりお慶び申し上げます。
その際、会場に飾られている大鏡餅の糯米は、福澤先生の出身地中津(大分県)のお米です。私の祖父寅二が戦前、米の産地問屋を手広くしており、昭和五年、初代中津市長の時「旧福澤記念館」が建設され、父九十郎(祖父の長男)が塾の高等部に入学、福澤先生の顕彰に尽カしていた祖父が感謝の気持ちを込めて送ったのが始まりではないかと思われます。これを書くにあたって資料を探したところ、中津出身の塾の畑功教授からの祖父や父宛の葉書が見つかり、昭和九年十二月十四日付けのものに「御尋ねの餅は福澤家に御送りが可然と存じ小生よりも八十吉君に右申し伝え可……」とあります。                 九十郎によれば、戦後は輸送が難しいので、書籍ということにして二個の梱包に分けて送っていたのですが、ある年では、塾監局の新しい係の人から「書籍は来ているが、糯米は来ていません」と数日放っておかれたこともあったそうです。

 ご存じの通り、福澤先生は天保五年に大坂堂島の中津藩蔵屋敷で生まれ、一歳半の時父親を亡くされ、母子六人で中津に帰郷しました。十九歳の時、蘭学を志して長崎に遊学、その後大坂の適塾で勉学に励み、安政五(一八五八)年二十三歳の時、藩の命令で江戸へ。藩主奥平家の中屋敷に蘭学塾(後の慶應義塾)を開きました。
 元治元(一八六四)年二十九歳の時には小幡篤次郎氏ほか六人の中津藩子弟伴い帰京、明治三年には母親を伴って帰京。この時『中津留別の書』をしたため、「自由と独立の精神が大切なこと」「人倫の大本(たいほん)は夫婦であること」「学問する事の大切さ」を述べ、末尾に「人誰か故郷を思わざらん、誰か旧人の幸福を祈らざる者あらん」と記しています。
 さらに、明治四年には、旧藩主奥平昌邁と共に中津市学校を開設し、小幡篤次郎を校長として派遣、教材の『学問のすゝめ』初編を刊行して教育振興に勉め、また、明治二十七年、耶馬渓の景勝競秀峰の売却を耳にし、私財で買収し郷土の自然景観保護にも貢献されました。このように、若き日、封建制度で辛苦の事もあった古い城下町郷里中津へ深い愛情を注がれました。その偉業を後世に残すため、旧福澤記念館が昭和五年に建設されました。
 園内にある福澤先生の銅像は、先生を敬愛する彫刻家和田嘉平治氏が自主製作されていたもので、交詢社や塾に置かれていたものを昭和八年に台座を作り旧邸に設置されたのですが、戦中、供出を余儀なくされ、戦後、昭和二十三年再び和田氏の手で復元製作され、元の台座に設置されたものです。その折、盛大に開催された除幕式には小泉信三前塾長も参列されました。
 旧邸は、昭和六十一年より三年かけて文化庁の管理の下、本格的な保存修理が行われ、平成十七~十八年には茅葺き屋根の葺き替えや土蔵の土壁の塗り替えが行われました。
 中津で生まれ育った私は、高校、大学を塾で学ばせていただき父没後も祖父、父の遺志をついで毎年末、中津の糯米を送らせていただいている次第です。平成二十年、慶應義塾創立百五十年の年に初めて妻と新年名刺交換会に出席し、正面に飾られた立派な大鏡餅を目のあたりにし大変感激し光栄に存じました。
 慶應義塾と中津市は連携協定が結ばれており、全国高等学校弁論大会(慶應と共催)など、数々の行事が行われております。どうぞ、皆さん、折あらば旧邸をご訪問下さいますようお待ちしております。